マリー・ダグー伯爵夫人(1805年 – 1876年)は、フランスのロマン派作家、歴史家であり、ペンネームの「ダニエル・ステルン」でも知られています。
フランクフルトで、亡命フランス貴族の父親と裕福な銀行家の娘である母親のもとに生まれ、1827年に15歳年上のシャルル・ダグー伯爵と結婚し、2人の子を儲けました。
1839年から作家としてのキャリアをスタートさせ、伝記、歴史書、小説などを執筆しました。
特に『1848年革命史』は彼女の代表作の一つです。
また、サロンを主催し当時の文化・政治・思想活動を牽引しました。
サロンと言うのは現代風に言うと交流サークルのようなもので、各界の著名人が集まって意見交換をしたり、議論をしたり、作品を発表したり、人脈構築をしたりする場だと思ってもらえば良いです。
彼女のサロンには、下記のような有名人も頻繁に出入りしていました。
・フランツ・リスト(ダグー伯爵夫人の愛人)
・フレデリック・ショパン(リストの友人)
・ジョルジュ・サンド(作家であり、マリーの親友、ショパンとも恋仲)
・ヴィクトル・ユーゴー(フランスを代表する作家・詩人、「レ・ミゼラブル」は有名)
・ハインリヒ・ハイネ(ドイツの詩人、「ハイネの詩集」は有名)
また彼女は、当時の社会規範に囚われず、自由な生き方を求める「新しい女」としての側面を持っていました。
「新しい女」(New Woman)とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、従来の女性の役割や社会規範に挑戦し、より自立した生き方を求めるようになった女性たちを指す言葉です。
具体的には、以下のような特徴を持つ女性たちを指します。
・結婚や家庭に縛られることなく、経済的自立を目指す
・家にいて着飾るだけでなく、外に出て活動的に振舞う
・参政権をはじめとする女性の政治的・社会的権利の主張
このように、マリー・ダグー伯爵夫人は単なる社交界の花形ではなく、自身の思想と文才を持つ知的な女性であり、19世紀パリの文化・政治・思想界に大きな影響を与えた人物でした。
そんな彼女がリストと出会ったのは1832年のパリでした。
当時、リストは21歳、マリーは27歳の時でした。
場所はル・ヴァイエ侯爵夫人のサロンでした。
マリーは、リストを初めて見たときの印象を、後に回想録で詳しく語っています。
彼女は、リストの演奏だけでなく、彼の全身からほとばしる情熱と天才性に強く惹かれました。
彼女にとって、リストは「アパリシオン(現象、幻影)」であり、単なる人間ではなく、何か神聖なもの、運命的なもののように感じられたのです。
リストにとっても、マリーは特別な存在でした。
彼はマリーの知性、美しさ、そして深い精神性に魅了されました。
二人の関係は、すぐに恋愛へと発展しました。マリーは既婚者であり、夫との間にはすでに2人の子供がいました。
しかし、彼女は夫との間に愛情を感じておらず、退屈な社交界の生活に空虚感を抱いていました。
リストとの出会いは、彼女の人生に強烈な光を差し込みました。
二人は秘密裏に逢瀬を重ね、互いの魂の結びつきを深めていきました。
そして、1835年、マリーはリストとの間に子供を授かったことをきっかけに、夫と子供たちを捨てて、リストと共にスイスへと駆け落ちします。
二人は事実上の夫婦として8年間を共にし、3人の子供をもうけました。
これは当時としては非常にスキャンダラスな事件でした。
当時の貴族社会では「結婚と恋愛は別」と言う考え方があり、不倫自体はそれほど珍しいものではなかったのですが、単なる不倫ではなく、公然とした駆け落ち、長期にわたる同棲、そして婚外子の出産という、社会規範を完全に逸脱した行動は社会から衝撃的に受け止められました。
結果として、彼女は自分の主催するサロンから追放されることになります。
貴族のルールを破ったとみなされたからです。
しかし、一方で彼女とリストの愛は本物だったようです。
それはリストが彼女と駆け落ち中に作曲したピアノ組曲『巡礼の年』で表現されています。
・『巡礼の年 第1年:スイス』(1835-1836年に作曲)
・この中の「泉のほとりで」は、リストがマリーとの愛を表現した作品として知られています
・『巡礼の年 第2年:イタリア』
・「ペトラルカのソネット」は、リストがマリーに宛てた愛の告白として解釈されています
これらの作品は、リストがただのヴィルトゥオーゾ(超絶技巧の演奏家)から、内面的な感情や文学的・絵画的な内容を表現する作曲家への成長を表しているとされています。
一般人には理解しがたいですが、芸術家は時にこのような破壊的な行動からインスピレーションを得て、それをも自らの成長の糧にするようなところがありますね。
そして二人の結末です。
二人の蜜月は生涯続くものではありませんでした。
リストは演奏活動への欲求が再燃し、マリーとの隠遁生活に飽きていきました。
一方マリーは、社交界での名誉を失ったことから、世間の好奇の目にさらされることを嫌がり、リストの演奏旅行に同行することを拒むようになります。
もはや二人の間の溝は修復不可能な状態となり、1846年、マリーはリストとの関係を暴露した小説「ネリダ」を出版し、二人の破局が決定的になったことを世に知らしめました。
諸行無常ですね。


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