クラシック音楽史上、最も美しく、最も儚い旋律を書いた「ピアノの詩人」フレデリック・ショパン。
1849年、若干39歳の若さで亡くなった後、彼の遺体は、フランス・パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
しかし、彼の「心臓」だけは、そこにはありません。
なんと、パリから約1,500km離れたポーランドの首都ワルシャワ。
その街の一角にある「聖十字架教会」の石柱の中に、彼の心臓は今も封印されていlるのです。
なぜ、彼の体と心臓は離ればなれにならなければならなかったのか?
今日はそのエピソードについてご紹介しましょう。
1849年10月、パリ。
結核に侵され、死の淵にいたショパンは、側に付き添っていた姉ルドヴィカに、最後のお願いを託します。
「私の体は解剖してください。そして、心臓だけはポーランドに連れて帰ってほしい」
ショパンは当時、医学的に未発達だった「仮死状態での埋葬」を病的に恐れていました。
しかし、それ以上に彼を突き動かしたのは、「死んでもなお、ロシアの支配下にある故郷、ポーランドへ帰りたい」という強い愛国心でした。
20歳でポーランドを離れて以来、革命や暴動といった時代の荒波に揉まれ、二度と故郷の土を踏むことができなかったショパン。
その郷愁はいかばかりだったでしょうか?
ショパンの死後、遺言通りに摘出された心臓は、コニャック(一説にはブランデー)を満たしたガラス瓶に入れられました。
しかし、当時ロシア支配下にあったポーランドへ「ショパンの心臓」を持ち帰ることは、政治的なリスクを伴う危険な行為でした。
ここで立ち上がったのが、姉のルドヴィカです。
彼女は、心臓の入った瓶を自分のドレスの裾の下に隠し、検問の目を盗んで国境を越えました。
もし見つかれば、不審物として没収されるだけでなく、彼女自身も収容所送りにされたかもしれません。
文字通り命がけの「密輸」によって、ショパンの心臓はようやくワルシャワの地に辿り着いたのです。
ワルシャワに戻った心臓は、紆余曲折を経て「聖十字架教会」の柱の中に安置されました。
しかし、受難は続きます。
第二次世界大戦中、ワルシャワはナチス・ドイツによって徹底的に破壊されました。
教会も爆撃を受けましたが、ショパンを敬愛していたドイツ軍将校(エリック・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキ)の手によって、心臓は一時的に安全な場所へ避難させられていたのです。
戦争が終わった1945年10月17日。
ショパンの命日に、心臓は再び教会の元の場所へと戻されました。
まさに「ポーランドの魂」として、幾多の歴史的試練を乗り越えてきたのです。
とても感動的ですね。
現在、心臓が眠る石柱には、聖書の一節が刻まれています。
「あなたの宝のある所に、あなたの心もあるのだ」(マタイによる福音書)
ショパンにとっての「宝」とは、名声でも富でもなく、愛する故郷ポーランドだったのですね。
下記の作品軍はショパンの愛国心が最も激しく表現されているといわれる曲です。
本日のエピソードを読み、ショパンの心に思いをはせながら聞けば感動も一層深まることでしょう。
エチュード 作品10-12 「革命」(ブーニン)
革命はブーニンです。
エチュード 作品10-3 「別れの曲」(ポリーニ)
ポリーニの「6度の森」が一番気に入ってます。
ポロネーズ 第6番 作品53 「英雄」(かてぃん)
難曲を何事もなくさらっと、天才かな。


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